PROFILE

虹色の手織りアーティスト。1969年4月9日生まれ、とり年、おひつじ座、B型、福井県出身。独身時代にカナダで演劇を10年間学ぶ。2007年東京国際映画祭でオージー旦那ラッセルと出会う。2009年に結婚しシドニーに移住。2017年にメルボルンに引っ越す。

Rainbow Art Weaver in Melbourne. Born in Japan. Lived Canada 10 yrs and obtained the MFA in Theatre Studies at the Uni of Calgary. Met my Aussie hubby Russell at the Tokyo International Film Festival in 2007. Upon our marriage, migrated to Sydney and lived 8.5 years. Moved to Melbourne in 2017.

虹色の手織りについて

Sydney (Australia)のPowerhouse Museum近くで撮影

Swedenにパフォーマンスアート公演で訪れた時に撮影

🌈虹って、ステキ💕

虹を見ると、みんなが幸せになる

私も、そんな虹のような手織りをして

身につけた人が

幸せ〜になる作品をつくっています!

✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨

Facebook: https://www.facebook.com/nijioribyyoko/

Instagram: https://www.instagram.com/yokodance/

Blog: http://yokokawabata.com/category/weaving/

✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨

私の名前「陽子(ようこ)」の由来

私の名前は、「陽子」という漢字です。

私が生まれた時、うちの父が「太陽のような明るい子に育って欲しい」という願いを込めて、「陽子」と名付けてくれたそうです。

名前通り、太陽のように明るく照らす人となれたらうれしいです。(≧∀≦)

これまでの道のり

1969年4月9日生まれ。福井県福井市出身。B型。おひつじ座。とり年。

福井県内の中学校、高校を卒業。

大阪府の「あべの製菓専門学校」で、お菓子作りを学ぶ。

大阪の吹田市のパン屋で、パン職人として、約3年間働く。

福井県の児童英会話教室で、英語インストラクターとして、約2年間働く。

シドニー留学から帰国した友人「舟木伸介」さんに、英語劇グループ「Fukui Theatre Company」に誘われる。1995年に初舞台「The Sound of Music」で、悪妻「Elsa」役を演じる。

英語劇グループの2年目の公演リハーサルを通して、新しいカナダ人男性演出家「Ron Dick」さんに出会う。Improvisation(インプロ)と呼ばれる西洋の演劇手法に触れ、「ビビビ〜💡インプロという西洋の演劇手法を学びたい〜!」と雷に打たれたような電撃が走る。

1996年〜2005年の約10年間、カナダのアルバータ州で留学。演劇&人類学を専攻。「Grande Prairie Regional College」、「University of Lethbridge」、「University of Calgary」の3種類の学校で学ぶ。

カナダの大学院を卒業後、日本に帰国。カナダ留学時代の親友「清野耕一」さんにコラボを誘われる。2007年にスエーデンの2箇所のアートギャラリーで、パフォーマンスアート公演をする。

スエーデンの公演後、パリでひとり放浪の旅。

パリで貯金を使い果たして、日本に帰国。帰国直後に、「2007年東京国際映画祭で受付」の仕事が舞い込んで来る。映画祭初日に、オージー旦那ラッセルと奇跡的に出会う。2年間の遠距離恋愛を経て、2009年12月に結婚。

2009年12月〜2016年6月の約8年半、シドニーに住む。ショッピングセンターQVB(Queen Victoria Building)内の、イタリア製の虹色なステーショナリーを販売するショップで、約2年間働く。初めて自分のミシンを買い、ソーイングも始める。職業訓練学校「Design Centre Enmore」で、2年間インテリアデザインも学ぶ。

2017年7月に、メルボルンに引っ越す。2018年11月に手織り機(腰機)を自作し、虹色のスカーフを作る。

2018年12月末に、手織り教室「Art Weaver SAORI Studio」のOpen Day(無料公開日)に足を運び、初めて日本製の手織り機「SAORI」で手織り体験をする。手織り体験中に「ビビビ〜!💡これだったんだ〜、私がやりたかったこと!」と稲妻が、感激で泣きそうになる。

2019年1月末から、導かれるように、日本製の手織り機「SAORI」で虹色の手織りを始める。

もっと知りたい人に、めっちゃ長〜い自己紹介

生まれも育ちも、福井県福井市です。

両親は日本人。(言わなくても分かるって?)

昭和44年4月、ソーイングが大好きな母と、溶接が得意な父のもとで、長女として生まれました。3歳下の、妹が一人います。

うちの両親は、私たち姉妹が子供の頃、市販のおもちゃとか、絶対に買ってくれませんでした。何度、駄々をこねて、おねだりしても、泣いても、わめいても、手足をバタバタしても、ダメ。子供だから、「近所の子が持ってるような車のおもちゃ」や、「新聞のチラシに載ってる人形のおもちゃや、ゲーム」も欲しいわけ。

でも、頑として、絶対に買ってくれない。

その代わりにね、画用紙、折り紙、色鉛筆、カラーマジック、ハサミ、セロテープ、ノリなど、アート・クラフトの道具は、惜しみなく買ってくれるの。

「子供なんて、おもちゃ買ってあげても、どうせすぐに飽きる。遊び道具は、自分で作りなさい!」が、両親の口癖でした。

そうするとね、

必要は発明の母!!

・・・って感じでね。

私たちも、自分達の遊び道具を、工夫して手作りするわけなんです。そうやって、自分でアイディアを考える力・クリエイティビティーが、子供の頃から鍛えあげられたよう。

私達姉妹が小さい頃は、母は専業主婦でした。母は、家族全員の洋服(ブラウス、パンツ、ジャケットなど)をミシンで縫ってました。編み機で毛糸のセーター、ベスト、毛糸のパンツなども編んでました。手先が器用で、何でも作ってしまう母。

私のソーイング好きは、母譲り。

子供の頃は、母の手作り服ばかりで、市販の服を全然買ってもらえなくてね。市販のジーパンを履いてる、よその子が羨ましかった!(隣の芝生は青く見える!)

でも母のお陰でね。小学六年生ぐらいから、すでに自分のバッグをデザインして、手縫いで縫っていました。

父は、溶接が得意でした。家のガレージの棚とか、ササッとDIYしちゃう人でした。父に似たのか、私や道具を使って、ものづくりするのが大好きに。

父は、家の裏の畑で、野菜・果物・植物を育てるのも上手です。うちの食卓に出てくる野菜・果物は、父が裏の畑で育てた、採れたてなものばかり。(子供の頃は、それが当たり前だと思ってました。今思うと、採れたてを食べれるなんて、本当に贅沢なこと!)

うちは、父・母の家系とも、ものづくりが得意な、手先の器用な人が多いです。

父の家系は、大工や農家。うちの父(私のおじいちゃん)は大工さん。私が育った2階建ての実家は、おじいちゃんの手作りでした。うちの父と母への結婚祝いのプレゼントです。

母の家系は、熟練の仏壇職人さんや、日本画家。私が子供の頃、日本画家のおじいちゃんが、目の前で、色紙にサラサラーーーーッと、鯉を描いて見せてくれました。まるで「生きてる鯉が、池の上から躍り出た」かのような、本物そっくりの生き生きした鯉!今でも忘れられない思い出です。

その日本画家のおじいちゃんの息子さん達は、仏壇職人さんでした。お仏壇の中の細かい彫刻を、木を削って作る職人さん。

父の家系も、母の家系も、手や道具を器用に使って、ものづくりをする人達が沢山。ミシンを使って、ハンドメイド作品を作るのが好きな私の中にも、ものづくり職人のご先祖さんのDNAが脈打ってるのかも・・・。(*´艸`) クスクス

中学・高校時代は、英語で赤点続き・・・

今でこそ、オーストラリアで、オージー旦那と暮らす私ですが・・・。子供の頃から英語が得意な訳ではありませんでした。

むしろ、全然出来なかった。(((( ̄ー ̄;)/ ギク

英語は、中学・高校とも赤点続き。100点満点中、4点とか、5点とかザラ。日本の学校の、文法を中心とした英語の勉強は、全然好きになれず。構文とか、全然暗記できなかったし、する気にもなれず。

でも、JET(外国人英語教師)とコミュニケーションするのが、異様に好きでした。中学・高校と、お菓子作りが大好きだった私は、アメリカ人女性の先生や、高校のバスケットボール部の仲間(あ、バスケットボール部では万年補欠でした。全然、運動神経ないの。苦笑)を実家に呼び、チョコチップクッキーを一緒に作ったりしてました。学校の英語は全然出来ないのに、外国人と、身振り手振りで何とかコミュニケーションするのが好きでした。(思えば、中学生の頃から、異文化コミュニケーションに異様なくらい興味があったと思う)

高校卒業後の進路についての三者面談で、ブチギレ

高校卒業が近づいてきた頃、担任の男の先生と、母親、私の3人で、卒業後の進路に関する三者面談がありました:

両親:女の子やし、高校卒業後は、福井の短大に通って、地元で就職して、結婚相手見つけて、寿退社するのが幸せやろ。この子は、二人姉妹のお姉ちゃんやし、お婿さんもらって、親の面倒みてもらわなあかんし。
私:いやや。私は大阪に行きたい。
担任の男の先生:そやけどね。ご両親も地元でって言ってるし。クラスの他の女の子も、みんな地元の短大行って、就職するもんやよ。じゃ、どこの短大に・・・

私:絶対、嫌ーーーーーーーーーっ!私は大阪に行く!大好きなお菓子の勉強をする!家出するーーーーー!

・・・と言った後、私の目から、涙が滝のように、ゴーーーーーゴーーーーーー!と流れてきて。

あっけにとられる担任の先生と母親を残して、私は号泣しながら、教室を飛び出して行ってしまいました。

結局・・・

両親:あんたは、昔から頑固で、言っても無駄やから・・・。大阪の専門学校の学費だけは出してあげる。生活費や学生寮の家賃は、自分でバイトして稼ぎなさい。1年間の専門学校を卒業したら、福井に戻ってきて、地元で就職すること!

・・・ということで、無事に両親の理解を得られて、とは程遠く、昔から自分の意思を曲げない頑固者だった私に、両親は完全にお手上げ状態で、大阪の専門学校に進学できることになりました。

私が小さい子供の頃から、親からいつも言われ続けていたことがあってね。それは、

あんたは女の子やし、地元で短大行って、就職して。

いい人見つけたら、寿退社して。

長女やし、お婿さんもらって。

あとは、うちで親の老後の面倒みてくれ。

それが女の幸せや

だったんだけど・・・。

全部、見事に裏切ってしまい、今も「はみ出し人生」をまっしぐら。

親は、娘が危険な目に合わないように、安全な道をアドバイスしてくれてたんだと思う。

でもね、

私は、自分がやりたいことも我慢してやらず、「親が言うから仕方なく別の道を歩む」ことは出来なかった。それでうまくいき、みんなが幸せなら、めでたし、めでたしだけどね。

でも、万が一うまくいかなかった場合、「本当は私、別のことがやりたかったのに。親がうるさく言うから我慢したけど。残念・・・」って、後で、親を恨むのが嫌だったの。

自分がやりたいことを、親の反対を押し切ってでもやって、それでも失敗したなら、全て自分の責任だから納得もいく。親を恨むこともない。

私が、親のアドバイスも聞かず、我が道を行く頑固さは、「自分が決めたことだから、責任も自分で取る」という思いもあってのこと。

福井県の高校を卒業し、いざ大阪へ!

両親の承諾をもらい、高校卒業後は、すぐに大阪へ一人で旅立ちました。

大阪あべの製菓専門学校で、一年間みっちりと、お菓子を作る勉強をしました。

国家資格の製菓衛生師免許も取得しました。

大阪あべの製菓専門学校を卒業し、暴力パン屋へ入社

両親から「1年間の専門学校を卒業したら、福井に戻ってきて、地元で就職すること!」と言われていたにもかかわらず・・・

専門学校を卒業後は、サッサと大阪の吹田市のパン屋で就職先を見つけてしまいました。(実を言うと、最初から、そのつもりでした。親の敷いたレールの上を歩くつもりはサラサラなかったのです。ごめんよ、父・母!)

吹田市のパン屋では三年間ぐらい働きました。工場長1人、その下で働く従業員が4人(私を含めて)という、小規模なパン工場です。

高校時代は、「毎日、違う種類のお菓子やパンを焼いて、楽しいワクワクな毎日を送って、幸せー!」でしたが、実際にパン屋に就職すると、憧れ通りにはいかず・・。

今思えば当然ですが、パン屋の仕事は、毎日、同じ時間に、同じ分量のパンを、同じ形と色に焼き上げて、同じように店頭に並ばなくてはいけません。でも、当時の私はまだ若くて世間知らずだった。そんなこと、職場に入るまで知らなかった。

「毎日、同じことの繰り返し、単調作業の繰り返し」が、超苦手な私は、職場で失敗ばかり。上司から毎日怒鳴られ、「明日こそ失敗しないぞ」と思うんだけど、それでも失敗の繰り返し。

パン工場では、元ヤンキーの番長で、柔道の黒帯を持ってるという、ガタイの大きい工場長がいました。従業員へは、工場長からの暴力が、日常的に行われていました。

パンを焦がしてしまった従業員が、片目をバコーンとパンチされて、真っ赤な目で仕事していたことも・・・。

私も、パン生地を発酵させすぎてしまった時や、工場長をイラっとさせる発言をしてしまった時、髪の毛を鷲掴みにされて、頭ごと振り回され、パイ生地を伸ばす機械に頭をガンガンぶつけられたことがあります。

セクハラされた女性従業員もいました。

工場長は、「しつけ」と称して、暴力のやりたい放題でした。

仕事を辞めたい、と何度も思いました。大阪を離れたい、とも思いました。

でも、初めて正社員として雇われた会社を、辞める決心がつきませんでした。それに、親に反抗して家を飛び出した手前、カッコ悪くて、実家に戻るのも嫌でした。

大阪のダメンズ君に貢ぐ私:「金、持ってこい!」

大阪を離れるのが嫌だった理由に、大阪で、当時付き合っていた彼がいた、というのもありました。

スラリと長身で、めっちゃくちゃイケメンな男性でした。あとで分かったけど、彼が付き合っていたのは、私だけではなく・・・。なんと、5マタ(!)かけられてました。(どんだけー!)

これを告白するの、すごく恥ずかしいんですが・・・。当時の私は、「イケメンな彼と付き合っている」と信じたかったのですが、彼にとっては単なる「お金の貢ぎ役」。(心の中では、薄々と「私って、利用されてる?」と感じていたけどね。でも、それを認めるのが嫌だったので、真実を見ようとしなかったのです)

彼は、普段、ほとんど会ってくれなかった。電話して(部屋に別の彼女がいると)、めちゃくちゃ機嫌が悪くて、一方的にガチャンと切られてばかり。

だけど、1ヶ月に2、3回は、彼から電話で呼び出されてね。

大阪の彼:おい、3万円持ってこい!
私:なんで?
大阪の彼:これからパチンコ屋に行くんや。そこで大儲けして、今夜のメシは、俺のおごりや!お前にうまいもんをたらふく食べさせてあげたいんや。だから3万円、もってこい。
私:いやや。
大阪の彼:じゃ、もういいわ。お前とは、もう会わん。もう俺たち、終わりや。
私:ええええええーーーっ!!そんなん嫌や!
大阪の彼:じゃ、3万円な。よろしく!

普段、全然会ってくれない彼だったので、「3万円持参すれば、会ってくれる」と、喜んでしまう自分もいて・・。

⬆︎アホ丸出し〜 (;´д` ) トホホ

彼に会えなくて、冷たくされてる期間は、プチうつな私。でも3万円を持参する為に、一瞬でも会える日は、化粧しながら有頂天!

彼と付き合ってた期間は、まるでジェットコースターをアップ・ダウンしてるような気分でした。いつも満たされない思い。自分に自信がないから、「彼に気に入られる」ことばかり考えていて。全然、「自分の軸」がなかったあの頃。

普段の貢ぎ代は3万円だったけど、年末は大きな競馬レースがあり、彼のリクエストは「10万円持ってこい!」になりました。

まず最初は、上と同じように「お金出すのいやや」「じゃ、俺たちおしまいや」的ないつものやり取りがあり。

でも最終的には、彼に一瞬でも会いたいが為に、10万円を彼に渡してしまう私。(ううっ、私ってイタイ女!)(*_*)ゝイタタ

そんな彼との満たされない関係がズルズルと続き、暴力パン屋を辞める決心もつかぬまま、ダラダラと3年近く仕事を続けたけど・・・。

工場長の暴力はエスカレートするばかり。

「いつ、また仕事で失敗して、暴力を振るわれるか」と思うと、毎日ビクビク、ピリピリして、ストレスで一杯。

ハゲ事件

久しぶりに、行きつけの美容院に行くと、いつもの担当の男性美容師が驚いて大声をあげました:

男性美容師:ようこさん、後頭部に五百円玉ぐらいの大きな円形ハゲが出来てるよ!なんか、ストレスあるんじゃないの?大丈夫?

心の中で感じていたストレスは、すでに体のあちこちにも出てきていました。

五百円玉サイズの円形ハゲ以外にも、左目の下に顔面チック症状。目の下の皮膚が、24時間いつも、ピクピクと痙攣してました。自分の意思では止められないのです。

それでも辞める決心がつかぬまま、仕事を続けていたら・・・

ある日、ぶっ倒れてしまいました。

病院に担ぎ込まれ、点滴を3日間。

もうダメだ。仕事辞めよう!実家に帰ろう!

・・・やっと決心出来ました。

大阪の荷物をパッキングして、実家に戻る時は本当に情けなかったです。

(;´д` ) トホホ

人生のターニングポイント!

と・こ・ろ・が・・・

この、「どん底」で、負け犬的な体験が、後から振り返ってみると、私の人生の大きなターニングポイントになりました。

どん底の真っ最中には、とても、そんな風には思えなかったけど。

でも、今から思えば、あの時、パン屋では落ちこぼれ職人で、彼氏との関係も全然うまくいかなかったからこそ、大阪から福井に引き返す決心がついたわけで・・・。あの時、何もかもがうまくいっていたら、今も大阪のパン屋で働いていたかもしれない!

でも、高校卒業してすぐに、一人で親元を離れて、大阪に飛び出し、見知らぬ土地で暮らした経験が無駄だったかというと、それも違う。この時の「親離れ体験」「見知らぬ土地で暮らしていく体験」があったからこそ、その後、もっと怖いカナダ留学にも挑戦できたのだから。

人生に無駄な体験はないのです。全部、役立っている。

福井県で、アメリカ人のダンに出会う

大阪から、地元の福井に戻ると・・・

偶然のタイミングで、高校時代のバスケットボール部で主将をしてた、「まさよ」が、ちょうど同じ時期に、アメリカ留学から戻ってきました。

アメリカ人の旦那「ダン」を連れて。

ダンは、福井でヘビメタバンドを結成。ヘビメタバンドでは、ボーカルとドラムを担当してました。英語でヘビメタのコピー曲(メタリカ、ニラヴァーナとか)を歌い、まるで、X-Japanのヨシキのように、首をブンブン振って激しくドラムを叩く人でした。

ダンは、外人バーと呼ばれる、英語を話す外国人が、うじゃうじゃと集まるバーで毎週末の演奏。60年代(?)のアメリカのようなネオンサインが素敵な、怪しいインテリアデザインの外人バーです。

ところが、ダンも、まさよも、車がない。私は、アッシー役(昭和の死語ですね)を頼まれました。ダンと、まさよを、毎週末、車で1時間かかる外人バーにお連れすることになりました。

外人バーで、ひとりぼっちの悲しい体験

外人バーに着くと、英語が母国語のダンも、英語が流暢なまさよも、人気者でね。

私だけ、一人でポツーーーーン・・・

( ̄□ ̄|||)がーーん!

だって英語が出来ないから、外国人は誰も相手にしてくれない。

やっと勇気を振り絞って、近くの外国人に話しかけても、

私:はろー!でぃすいず、よーこ。あいあむ、ふろむ、ふくいしてぃー。
外国人A:あ、ごめんね。トイレに行きたいから。また後で話そうね。
外国人B:あ、友達が向こうで呼んでるから。また後で話そうね。

・・・てな具合で、

また、一人でポツーーーーーーーーン。

( ̄Д ̄;) ガーン

もうね、

「くそーっ!英語さえできりゃーいいんでしょ?」と、めっちゃくちゃ悔しくって。

(不思議と、「アッシー辞める」とは思わなかった)

悔しさをバネに、独学で、英語の猛勉強!

外人バーで惨めな思いをした翌日、さっそく本屋に飛び込みました。

NHK英会話基礎から、NHKビジネス英語まで、6冊分のテキストブックを買い込んでね。そのラジオ番組を全番組、カセットテープに録音しました。(当時はカセットテープの時代!)

そして、朝から晩まで、毎日、毎週、いつでもどこでも、狂ったように、その英語の録音テープを聞いてました。家で聞く時は、テキスト見ながらラジオの声のリピートしたりね。めちゃめちゃ楽しかったんだよね。中学・高校時代、テストでいい点をとる為の英語の勉強は好きになれなかったけど、外人バーで友達作る為の英語の勉強は楽しくてね〜。時間を忘れて、毎日、夢中になってやってました。

その時、英語の文法や、構文は一切、暗記してないです。(だって興味なかったから)

そんなことを毎日やってたら英語が少しづつ話せるように。そうすると、外人バーでお友達がどんどん増えて!外国人と一緒に飲んで、喋って、叫んで、ヘビメタのライブ演奏に合わせて飛んだり跳ねたり踊ったり。

外国人の知り合いが増えるにつれ、手作りの食べ物を持ち寄る「ポットラックパーティー」というハウスパーティーにも頻繁に呼ばれたり。

かっこ良くて、優しいアメリカ人の彼氏も出来てね!本当に楽しかったなぁ、あの頃。

大阪で「落ちこぼれパン屋職人」や「ダメンズ彼氏に貢ぎ役」してた頃とは大違い。

私の場合、英語は文法や構文の暗記など、一切してません。ただ単に、その瞬間に、自分がワクワクすることを、素直に即行動していっただけ。

英語劇への挑戦も、そのワクワクの一つでした。

福井県の「Fukui Theatre Company」で英語劇に初挑戦!

記念すべき初舞台体験は、地元の福井県でした。

1995年11月のことです。

オーストラリアのシドニー大学で、社会福祉学を学んだ「舟木伸介さん」という友人に、誘われました:

おい、ナンシー!(←当時外国人に憧れていた私が自分でつけたミドルネーム。恥)英語劇グループ《Fukui Theatre Company》を発足するぞ。一緒にやろう〜!

 

そして、演出家の舟木伸介さんが率いる、日本人約20人とアメリカ人男性1人による英語劇が、野外舞台で公演されました。こうして、私は、1995年に初舞台「The Sound of Music」で、悪妻「Elsa」役を怪演しました。

1年目の公演は、福井県の国際交流祭の出し物の一環として野外舞台で公演。それなりにお客さんも集まり、成功しました。

そして英語劇グループは、2年目の公演「The Beauty and the Beast」に向けて、リハーサルをスタート。カナダの大学で演劇を学んだカナダ人男性「Ron Dick」さんも、新しい演出家として参加することに。

Ronさんの、Improvisation(インプロ)と呼ばれる西洋の演劇手法に触れ、「ビビビビビッ!!!💡 こ、これは何なんだ〜!もっと学びたい!!」と、震える私。

Ronさんに相談すると、「僕のやってる演劇手法は、アメリカやカナダの大学で演劇を専攻すれば、誰でも学べることだよ」と言われ・・・。

「カナダの大学で演劇を学びたい!」という気持ちが抑えられなくなった私は、ついに飛んでいってしまいました。

カナダ留学をする前の不安

「カナダに飛んで行ってしまいました・・」と書くと、何の不安もなくカナダにすっ飛んで行ったように聞こえるかもしれないけど。

当然、不安もありました。

「カナダで演劇を学んで、将来、一体何の役に立つの?」と、常識的なことも一応考えました。

「働いて貯めた貯金を留学で全部使ってしまったら、老後の蓄えとかなくなっちゃうし」と、遠い未来のことも不安に思いました。

「今、20代後半だし、周りの友達は結婚して、子供を持ってる人もいる。私だけフラフラと海外に行って演劇勉強するなんて。もっと地に足をつけなきゃいけない年頃なんじゃない?」と、周りとの比較もし、自分がおかしいんじゃないかとも思いました。

でもね、当時のメンター「川瀬咲子さん」に相談したら、言われたんです。

もう歳だしって言うけど、あなたはまだまだ若いわよ。だって20代後半じゃない?

今は多少お金がなくても、自分の自由にできる時間はたっぷりある。

そのうちね、もっとお金に余裕がある年代になるでしょ?その頃には、親も歳とって面倒みなきゃ行けないし。旦那や子供もいると、自分が自由にやれる時間は減ってくる。

今、そうやって独身のうちに、思い切って自分がやりたいことをやってきなさい。好きなことをやっていれば、お金はついてくる!

咲子さんの愛ある言葉に、すごーく背中を押されました。

将来を思うと不安だらけだけど、それでも、カナダに行くことにしました。

 

カナダの語学学校と、2年制カレッジに留学

1997年からカナダに行き、トータルで約10年間の演劇留学しました。留学をスタートした当時、26歳だったかな。

最初は、Grande Prairie Regional College(Alberta州)という、ど田舎にある2年制カレッジ付属の語学学校に行きました。語学学校に通い始めて3ヶ月目に、思い切って受けたDramaのオーディションに受かり、カナダで舞台デビューしました。

語学学校の最上級クラスを卒業した後、そのまま2年制カレッジのGrande Prairie Regional Collegeに進学。大学進学準備コースでアートを専攻。この時点では、まだ主専攻を決める必要はなく、自分が学んでみたいクラスを自由に取れます。

私は、Drama(演劇)、アート学科、人類学科、社会学科、心理学科のクラスを取りました。アート学科では、Printmaking(版画)のクラスもいくつか取りました。

ここでのDramaのクラスは、脚本家が書いた脚本を使うという、Script-baseのお芝居を多く体験しました。一人二役の大抜擢を受けたこともありました。

大都市の大学だと競争率も激しくて、英語が母国語のカナダ人に混じって、日本人が第二ヶ国語の英語で役をもらうのは至難の技だと思うの。

でも、ど田舎の小さなカレッジで演劇を学ぶと、演劇を学ぶ学生の数が少なめなので、日本人でも大舞台で演じるチャンスをもらえるのです。

この町は、冬の平均気温が−30度(一番寒い時で−47度を体験!)と、すごく寒かったけど、日本人の私が演劇を学ぶには、ベストな場所でした。おかげさまで、本当に沢山の舞台で感動を体験させてもらいました。

カナダの4年制大学の3年生に編入

その後は、University of Lethbridge(Alberta州)という、4年制大学に3年生として編入。大学の3−4年生のカリキュラムをここで学びました。ここでは、生まれて初めてのダンス舞台を体験しました。

 

カナダの大学院に留学して、演劇の研究

4年制大学を卒業した後、University of Calgaryの大学院過程に進学しました。卒業制作で、オリジナルのパフォーマンスアート作品を創作しました。カルガリー市のど真ん中の大きな劇場が沢山入ってる建物内のパフォーマンスイベントで公演する機会に恵まれました。おかげさまで、チケットはソールドアウト。会場には座る場所がなく、立ち見も沢山出るほど大盛況でした。

卒業後は、カナダ、スエーデン、東京、福井で、舞台役者、舞台監督、独自のパフォーマンス作品の創作・公演などを体験中です。

カルガリー大学やシドニー大学で、ゲストレクチャー講師も経験してます。

 

オージーの旦那ラッセルです!

私とラッセル、毎日ワイワイ楽しく、国際結婚中です!

ラッセルとは、「2007年東京国際映画祭」のお仕事を通して知り合いました。

ラッセルと出会った時は、映画評論家でした。映画の脚本を書いたり、ショートフィルムのディレクターも経験してます。

2年間の遠距離恋愛を経て、2009年12月に結婚。結婚を機に、シドニーに引っ越しました。

ラッセルが博士号(専攻は映画)の勉強をすることになり、2017年7月にメルボルンに引っ越しました。

「人前で演じるのが得意な私」と、「映画の脚本を書くのが得意なラッセル」の、ゴールデンコンビ(←誰も言ってくれないから、自分で言ってるよ!笑)がコラボして、韓国の釜山でショートフィルムを作りました〜♪(2016年制作)

Yoko & Russell's Busan Adventure

結婚後、シドニーで歯列矯正をしました

↑歯列矯正のワイヤーが取れた直後の、嬉しさ満開の私。

歯並びの悪さは、子供の頃から、ずーーーーっとコンプレックスだった私。子供の頃から出っ歯の八重歯で、本当に恥ずかしかった。人に出っ歯だとバレたくなくて、心の底から笑えなかったの。

20代の時、子供の頃から通っていた、ある日本の一般歯科医で「歯列矯正をしたい」と申し出ると、「もうあなたの年齢では、歯は動かない。差し歯矯正ならできる」と言われる。

ワラにもすがる気持ちで差し歯矯正をしたけど、その不自然な見た目に不満でいっぱい。20〜30代にカナダ留学をしていた時、通りすがりのカナダ人から、「歯がいっぱいあって、変」と心ない言葉を言われ、すごく傷ついた思い出あり・・。

40代になり、シドニーで優秀な歯列矯正医と、差し歯矯正医に出会い、お二人の協力で晴れて歯並びが綺麗になりました。歯並びを気にせず、心から「ガッハッハー!」と大口開けて笑えることが、本当にうれしいです。

結婚後、シドニーでミシンを買い、ソーイングにのめり込む

肌に心地よい天然素材のリネン、シルク、コットンでソーイングするのが大好き。

昔は、市販のポリエステル製の洋服も着ていました。でも、自分でリネン、シルク、コットンの洋服をハンドメイドすると、あまりの着心地の良さに感動!冬は、パチパチする静電氣おきにくいしね。夏は、汗をかいてもサラリと快適なリネンは、やみつきです!もう、天然素材以外の洋服は着れません!!

ミシン好きな母を見て育ったので、幼少の頃から自分でデザインを考えるのが好きでした。小学6年生ぐらいから通学バッグや、定期入れケースを作ってました。

今も暇さえあれば、家に引きこもりミシン、ミシン、ミシン!
一日中、誰とも会話しなくても、平氣!(笑)
放っておいたら、食べるのも、寝るのも忘れて、一人で楽しくミシンに没頭できます!

カラフルで、使う人がワクワクし、元氣になれる、ビジネスカードケースや、トートバッグなどを作るのが楽しみなんです!

💡今日のアイディア!💡

ええと、私の10−30代は、

「子供の頃から歯並びが悪く、ひどい出っ歯だった」

「日本の一般歯科医で、虫歯一つない前歯6本を削られ、差し歯矯正になった」

「暴力パン屋のストレスで、円形ハゲと顔面チック症状が出て、ぶっ倒れた」

「ダメンズに5股かけられ、パチンコ代・競馬代を貢いでいた」

「外人バーで、英語が話せないから、誰からも相手にされず、一人ポツーーーーーーンと壁の花だった」

・・・と、波乱万丈でした。

でもっ!!

「日本の一般歯科医で、虫歯一つない前歯6本を削られ、差し歯矯正になった」経験は辛かったですが、だからこそ、同じように歯のことで悩んでいる人の気持ちがよく分かります。シドニーで素晴らしい歯列矯正医に出会い、長年のコンプレックスだった出っ歯も、まっすぐになり、歯や歯茎を隠さずに、思いっきり笑えるようになりました。もし私が、生まれつき歯並びの良い状態しか知らなかったら、それが当たり前すぎて、こんな感動を感じることもなかったでしょう。

「暴力パン屋のストレスで、ぶっ倒れた」経験がなければ、私は、今も大阪のパン工場で働いていたかもしれません。そして、カナダ、スエーデン、パリ、オーストラリアなど、もっと広い世界を見て感動することもなかったでしょう。

「外人バーで英語が話せず、誰からも相手にされなかった経験」も、今から思えば全然無駄ではなかったです。あの時の悔しさをバネに英語を独学で猛勉強したから、英語劇に出会い、そしてカナダでの10年間の演劇留学を通して、感動的な舞台活動が出来ました。

そして、カナダでの10年間の演劇留学体験がなければ、30代後半で出会った、映画評論家・脚本家の旦那ラッセルとも結婚していなかったかもしれません。

ラッセルとは、演劇・映画関連で共通することも多く、これ以上ピッタリなパートナーは、どこを探してもありえないと感じてます。

ソウルメイトだと確信してます。

こうして、今、旦那ラッセルと、シドニーで毎日ワイワイ楽しく、ハッピーに暮らせていることに、本当に感謝してます。

つくづく、人生に無駄な経験はないんだなぁーと思います。

私の大好きなLILY WISTERIA(リリー・ウィステリア)さんの本で、

宇宙は1ミリの狂いもなく、私たち一人一人のためにベストなものを采配してくれている

と読みました。

10−30代の頃は、無我夢中で波乱万丈な人生を生きてきました。人生80年とするなら、今、私は40代で、折り返し地点。

こうやって、これまでの人生を振り返ると、過去のどんな体験も「無駄にはなっていない」ことに気づき、まさに、リーリーさんが言うように「宇宙は1ミリの狂いもなく、うまく采配してくれてる」と思える心境です。

LILY WISTERIA(リリー・ウィステリア)さん、オススメです:

ピッと宇宙につながる最強の叶え方 [ リリー・ウィステリア ]

価格:1,512円
(2017/6/4 02:21時点)
感想(2件)

私の経歴

デザインセンター・エンモア、Sydney Institute TAFE
インテリアデザイン・ディプロマ取得。(オーストラリア、2015年)

カルガリー大学院、芸術学部 
演劇科にて修士号取得。(カナダ、2004年)

  • カルガリー大学院の修士号卒業論文「Creativity and Performance Creation」は、pdf版を無料ダウンロードできます: http://hdl.handle.net/1880/41652

レスブリッジ大学、芸術学部演劇学科
学士号取得 & 人文学部人類学科の学士号取得(カナダ、2001年)

グランド・プレーリー・リージョナル・カレッジ
大学進学コース(アート、栄誉賞)卒業(カナダ、1999年)

グランド・プレーリー・リージョナル・カレッジ付属語学学校
最上級レベル終了(カナダ、1997年)

大阪阿倍野辻製菓専門学校
製菓衛生師免許 取得(日本、1989年)

 

 

Yoko’s Bio (English)

I’m Artist Weaver/Blogger in Melbourne, Australia.

I was born & grew up in Fukui prefecture in Japan.

After graduating from a high school, I studied baking at the Osaka Abeno Tsuji Confectionary School in Osaka. I had worked as a professional baker for 3 years in Osaka, Japan.

Between 1996 and 2005, I had studied Drama for 10 years in Canada.  I had obtained:BA in Drama & Anthropology (Double-majored) at the University of Lethbridge, as well as MFA in Theatre Studies at the University of Calgary. I’ve performed in Canada, Sweden, Japan, and Australia.

I’ve met my Aussie hubby Russell at the Tokyo International Film Festival in 2007. We’ve been happily married since our marriage in 2009.

Yoko’s Background (English)

Diploma in Interior Design, Design Centre Enmore, Sydney Institute TAFE (Australia, 2015)

Master of Fine Arts in Theatre Studies, University of Calgary. (Canada, 2004)

Bachelor of Arts in Drama & Bachelor of Arts in Anthropology (Double-majored), University of Lethbridge, (Canada, 2001)

Diploma in University Studies (Arts, with distinction)
Grande Prairie Regional College (Canada, 1999)

Certificate of Advanced level of English as a Second Language
ESL school, Grande Prairie Regional College (Canada, 1997)

Certificate of Confectionery Hygiene Master
Osaka Abeno Tsuji Confectionary School (Japan, 1989)