PROFILE

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オーストラリアのメルボルンで「虹色の手織りアーティスト」として活動中。数秘術運命数11(←直感とアイディアで行動します)。B型のおひつじ座。福井県出身。1969年4月9日生まれ、とり年。独身時代にカナダで演劇を10年間学ぶ。2007年東京国際映画祭でオージー旦那ラッセルと出会う。2009年に結婚しシドニーに移住。2017年にメルボルンに引っ越す。2018年にさをり織りに出会い、虹色の手織りに目覚める。

Rainbow Art Weaver in Melbourne, Australia. Numerology number 11.  Born in Japan. Lived Canada 10 yrs and obtained the MFA in Theatre Studies at the Uni of Calgary. Married to Aussie hubby and moved to Sydney (2009). Moved to Melbourne (2017). Discovered SAORI weaving  and weaving in rainbow colours since 2019.

Rainbow Artist Weaver(虹色の手織りアーティスト)

虹色の手織りスカーフ
虹色の肩掛けショール
虹色のポンチョ
虹色のスカート

🌈虹って、ステキ💕

虹を見ると、みんなが幸せになる

私も、そんな虹のような手織りをして

身につけた人が

幸せ〜になる作品をつくっています!

✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨

🌈Rainbow Artist Weaver(虹色の手織りアーティスト)

Facebook: https://www.facebook.com/yoko.kawabata11

Instagram: https://www.instagram.com/yoko.kawabata11/

Blog: http://yokokawabata.com/category/weaving/

✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨✨

私の名前「陽子(ようこ)」の由来

私の名前は、「陽子」です。

うちの父が「太陽のような明るい子に育って欲しい」という願いを込めて、「陽子」と名付けてくれたそうです。

名前通り、太陽のように明るく照らす人となれたらうれしいです。(≧∀≦)

子供時代に好きだったこと:カラフルな色で遊ぶ

小学6年生の修学旅行の私(右)

1969年4月9日生まれ、とり年、おひつじ座、B型、福井県出身。

父と母からなる核家族で、長女として生まれました。3歳下の妹が一人います。

私が子供の頃、母は専業主婦でした。ミシンでソーイングしたり、編み機で編み物をするのが得意でした。母は自分の洋服やバッグ以外にも、子供用の洋服(ブラウス、パンツ、ジャケットなど)をミシンで縫ってました。

また、編み機で毛糸のセーター、ベスト、毛糸のパンツなども編んでました。サイズが小さくなって着れなくなった毛糸のセーターは捨てずに、毛糸をほどいて、伸ばして、また違う洋服にリメイクしてました。大事に手先が器用で、何でも作ってしまう母。

当時、おばあちゃん(父の母)が近くの「セーレン」(今は広告資材、自動車内装資材なども手がける大企業ですが、昔は「染色などの生地加工(精錬)」が中心でした)で働いていました。

小さな傷や汚れがついてる布地は、販売できないので無料でもらってきて、母にプレゼントしてました。そのため、実家の押し入れには、いろんな色の布が山のようにドッサリありました!

子供の頃から、沢山の色の布に囲まれて育ち、布は遊び道具の一つでした。

ソーイング好きな母の影響で、私も小学六年生ぐらいから、通学用の手提げバッグを、自分でデザインして縫っていました。

父は、溶接の仕事をしていました。休日は、家のガレージの棚とかを鉄を溶接して「ササッ」と簡単にDIYしちゃう人でした。

実家には大きな畑があり、父は野菜・果物・植物を育てるのも上手でした。夕ご飯などで食べる野菜・果物は、父が畑で育てた新鮮な採れたてばかり。

(子供の頃は、それが当たり前だと思ってました。今思うと、採れたてを食べれるなんて本当に贅沢なこと!)

子供時代に嫌だったこと:市販のモノを買ってもらえない

幼少期は母が専業主婦だったので、母の手作り服ばかりでした。

(私や妹が小学校に上がると、母もパートで働きに出かけ始めました。手作り服以外にも、バザーで買ったセカンドハンドのお古の洋服を着る機会が出てきましたが)

セーレンでもらう、無料のアウトレット布地で作られた服は、ポリエステル製のカーテン生地も多くて。小学生の時、同級生の男子から「カーテンパンツ!カーテンパンツ!」と笑われて恥ずかしかったな。

母に「学校でカーテンパンツって笑われるから嫌や。他の子みたいな普通のジーパンを履きたい。買って!」と頼んでも、市販の服は全然買ってもらえなくてね。市販の普通のジーパンを履いてる、よその子がうらやましかった〜!

あと、市販のおもちゃも全然買ってもらえなかったのね。何度、駄々をこねて、おねだりしても、泣いても、わめいても、手足をバタバタしても、ダメ。子供だから、「近所の子が持ってるような車のおもちゃ」や、「新聞のチラシに載ってる人形のおもちゃや、ゲーム」も欲しいわけ。

でも、「子供なんて、おもちゃ買ってあげても、どうせすぐに飽きる。遊び道具は自分で作りなさい!」が、両親の口癖でした。

だから市販のおもちゃは何一つ買ってもらえなかったけど、画用紙、折り紙、色鉛筆、カラーマジック、ハサミ、セロテープ、ノリなど、アート・クラフトの道具は、惜しみなく買ってくれました。

「必要は発明の母」というんでしょうかね。おねだりしても買ってもらえないから、自分の遊び道具を工夫して手作りしてました。

今から思えば、両親には大感謝です。そうやって、自分でアイディアを考える力・クリエイティビティーが、子供の頃から鍛えあげられました。

私の家系は、ものづくり一家

父の家系は農家、兼、大工です。私が育った2階建ての実家は、おじいちゃんの手作りでした。うちの父と母への結婚祝いのプレゼントだったそうです。

母の家系は、熟練の仏壇職人さんや、日本画家です。私が子供の頃、日本画家のおじいちゃんが、目の前の色紙に「サラサラーーーーッ」と、鯉を描いてくれました。まるで「生きてる鯉が、池の上から躍り出た」かのような、本物そっくりの生き生きした鯉!今でも忘れられない衝撃的な思い出です。

日本画家のおじいちゃんちは仏壇職人さんの家でもありました。お仏壇の中の細かい彫刻を、木を削って作る職人さんです。

父の家系も、母の家系も、手や道具を器用に使って、ものづくりをする人達が沢山。私がものづくりが好きなのも、ご先祖さんの「ものづくり職人のDNA」が脈打ってるのかなぁと思います。(*´艸`) クスクス

中学・高校時代:英語・数学は赤点ばかり・・・

今でこそ、オーストラリアで、オージー旦那と暮らす私ですが・・・。

子供の頃から英語が得意な訳ではありませんでした。

むしろ、全然出来なかった。(((( ̄ー ̄;)/ ギク

英語は、中学・高校とも赤点続き。100点満点中、4点とか、5点とかザラ。日本の学校の、文法を中心とした英語の勉強は、全然好きになれず。構文とか、全然暗記できなかったし、する気にもなれず。

でも、JET(外国人英会話教師)とコミュニケーションするのが、異様に好きでした。中学・高校と、お菓子作りが大好きだった私は、アメリカ人女性の先生や、高校のバスケットボール部の仲間(あ、バスケットボール部では万年補欠でした。全然、運動神経ないの。苦笑)を実家に呼び、チョコチップクッキーを一緒に作ったりしてました。

学校の英語は全然出来ないのに、外国人と身振り手振りで何とかコミュニケーションするのが好きでした。(思えば、中学生の頃から、異文化コミュニケーションに異様なくらい興味があったと思う)

高校卒業後の進路についての三者面談で、ブチギレ

高校時代の私

高校卒業が近づいてきた頃、担任の男の先生と、母親、私の3人で、卒業後の進路に関する三者面談がありました。

母:女の子やし、高校卒業後は、福井の短大に通って、地元で就職して、結婚相手見つけて、寿退社するのが幸せやろ。この子は、二人姉妹のお姉ちゃんやし、お婿さんもらって、親の面倒みてもらわなあかんし。

私:いやや。私は大阪に行きたい。

担任の男の先生:そやけどね。ご両親も地元でって言ってるし。クラスの他の女の子も、みんな地元の短大行って、就職するもんやよ。じゃ、どこの短大に・・・

私:絶対、嫌ーーーーーーーーーっ!私は大阪に行く!大好きなお菓子の勉強をする!家出するーーーーー!

・・・と言った後、私の目から、涙が滝のように、ゴーーーーーゴーーーーーー!と流れてきて。

あっけにとられる担任の先生と母親を残して、私は号泣しながら、教室を飛び出して行ってしまいました。

結局・・・

両親:あんたは、昔から頑固で、言っても無駄やから・・・。大阪の専門学校の学費だけは出してあげる。生活費や学生寮の家賃は、自分でバイトして稼ぎなさい。1年間の専門学校を卒業したら、福井に戻ってきて、地元で就職すること!

・・・ということで、無事に両親の理解を得られて、とは程遠く、昔から自分の意思を曲げない頑固者だった私に、両親は完全にお手上げ状態で、大阪の専門学校に進学できることになりました。

私が小さい子供の頃から、親からいつも言われ続けていたことがあってね。それは、

あんたは女の子やし、地元で短大行って、就職して。

いい人見つけたら、寿退社して。

長女やし、お婿さんもらって。子供産んで。

あとは、うちで親の老後の面倒みてくれ。

それが女の幸せや

・・・だったの。

その当時、地元の人たちは、みな似たり寄ったり同じようなことを言ってたし、うちの親だけが特別というわけでもなくて・・・。

でも、私の場合は、なぜかその言葉を聞くと、身の毛もよだつほど嫌で、「絶対にいや!」と、毎回、親に烈火のごとく怒り狂い、猛反発してました。

今思えば、私の親は、「娘が危険な目に合わないように、安全な道をアドバイスしてくれてた」んだと思う。

でもね、

私は、「自分がやりたいこと」を我慢してやらずに、「親が言うから仕方なく別の道を歩む」ことは出来なかった。

それでうまくいき、みんなが幸せなら、めでたし、めでたしだけどね。

でも、万が一うまくいかなかった場合、「本当は私、別のことがやりたかったのに。親がうるさく言うから我慢したけど。残念・・・」と、後で、親を恨むのが嫌だったの。

自分がやりたいことを、親の反対を押し切ってでもやって、それでも失敗したなら、全て自分の責任だから納得もいく。親を恨むこともない。

私が、親のアドバイスも聞かず、我が道を行く頑固さは、「自分が決めたことだから、責任も自分で取る」という思いもあってのこと。

ま、でも今から思えば、大反対する両親や担任の先生がいたお陰で、私はその人たちに反発することで大きなエネルギーをもらい、飛び出すことが出来たわけでもあるの。

そういう意味では、「わざわざ悪役を演じてくれてありがとう」と、感謝しかないです。きっとお空の上で、そういうキャスティングを話し合ってきたのかなと思うんだ。

もしも、私の両親が物分かりの良い人で、「いいよ、いいよ、自由にやりたいことをなんでもやりなさいな」と言ってくれる人だったなら・・・。

私は両親の家にずっと住んでいたかもしれない。子供の頃から生まれ育った、ぬくぬくと心地良い環境を捨てて、未知なる世界に飛び出して行くなんて怖くて出来なかったかも。

福井県の高校を卒業し、いざ大阪へ!

両親の承諾をもらい、高校卒業後は、すぐに大阪へ一人で旅立ちました。

「大阪あべの製菓専門学校」で、一年間みっちりと、お菓子を作る勉強をしました。

高校生の頃、お菓子作りが好きだったのは事実。毎週末、新しい種類のケーキ、クッキー、マドレーヌ、パンなどを焼いて、家族やクラスメートに配ってました。みんなの喜ぶ顔がうれしかった。

でもね、高校卒業後

いやぁ、あの頃は本当に楽しかったなぁ。大好きなお菓子作りが毎日できて。しかも毎日、違う種類のケーキ、和菓子などを学べて新鮮でした。

国家資格の製菓衛生師免許も取得しました。

人生の大どん底1:大阪あべの製菓専門学校を卒業し、暴力パン屋へ入社

両親から「1年間の専門学校を卒業したら、福井に戻ってきて、地元で就職すること!」と言われていたにもかかわらず・・・

専門学校を卒業後は、サッサと大阪の吹田市のパン屋で就職先を見つけてしまいました。

(実を言うと、最初から、そのつもりでした。親の敷いたレールの上を歩くつもりはサラサラなかったのです。ごめんよ、父・母!)

吹田市のパン屋では三年間ぐらい働きました。工場長1人、その下で働く従業員が4人(私を含めて)という、小規模なパン工場です。

高校時代は、「毎日、違う種類のお菓子やパンを焼いて、楽しいワクワクな毎日を送って、幸せー!」でしたが、実際にパン屋に就職すると、憧れ通りにはいかず・・。

今思えば当然ですが、パン屋の仕事は、毎日、同じ時間に、同じ分量のパンを、同じ形と色に焼き上げて、同じように店頭に並ばなくてはいけません。

でも、当時の私はまだ若くて世間知らずだった。そんなこと、職場に入るまで知らなかった。

「毎日、同じことの繰り返し、単調作業の繰り返し」が、超苦手な私は、職場で失敗ばかり。

上司から毎日怒鳴られ、「明日こそ失敗しないぞ」と思うんだけど、それでも失敗の繰り返し。

パン工場では、元ヤンキーの番長で、柔道の黒帯を持ってるという、ガタイの大きい工場長がいました。従業員へは、工場長からの暴力が、日常的に行われていました。

パンを焦がしてしまった従業員が、片目をバコーンとパンチされて、真っ赤な目で仕事していたことも・・・。

私も、パン生地を発酵させすぎてしまった時や、工場長をイラっとさせる発言をしてしまった時、髪の毛を鷲掴みにされて、頭ごと振り回され、パイ生地を伸ばす機械に頭をガンガンぶつけられたことがあります。

セクハラされた女性従業員もいました。

工場長は、「しつけ」と称して、暴力のやりたい放題でした。

仕事を辞めたい、と何度も思いました。大阪を離れたい、とも思いました。

でも初めて正社員として雇われた会社を、辞める決心がつきませんでした。

それに、親に反抗して家を飛び出した手前、カッコ悪くて、実家に戻るのも嫌でした。

人生の大どん底2:大阪のダメンズ君に貢ぐ私「おい!金、持ってこい!」

大阪を離れるのが嫌だった理由に、「大阪に、当時付き合っていた彼がいた」というのもありました。

スラリと長身で、めっちゃくちゃイケメンな男性でした。あとで分かったけど、彼が付き合っていたのは、私だけではなく・・・。

なんと、5マタ(!)かけられてました。(どんだけー!)

これを告白するの、すごく恥ずかしいんですが・・・。

当時の私は、「イケメンな彼と付き合っている」と信じたかったのですが、彼にとっては単なる「お金の貢ぎ役」。

(心の中では、薄々と「私って、利用されてる?」と感じていたけどね。でも、それを認めるのが嫌だったので、真実を見ようとしなかったのです)

彼は、普段、ほとんど会ってくれなかった。電話して(部屋に別の彼女がいると)、めちゃくちゃ機嫌が悪くて、一方的にガチャンと切られてばかり。

だけど、1ヶ月に2、3回は、彼から電話で呼び出されてね。

大阪の彼:おい、3万円持ってこい!

私:なんで?

大阪の彼:これからパチンコ屋に行くんや。そこで大儲けして、今夜のメシは、俺のおごりや!お前にうまいもんをたらふく食べさせてあげたいんや。だから3万円、もってこい。

私:いやや。

大阪の彼:じゃ、もういいわ。お前とは、もう会わん。もう俺たち、終わりや。 私:ええええええーーーっ!!そんなん嫌や!

大阪の彼:じゃ、3万円な。よろしく!

普段、全然会ってくれない彼だったので、「3万円持参すれば、会ってくれる」と、喜んでしまう自分もいて・・。

⬆︎アホ丸出し〜 (;´д` ) トホホ

彼に会えなくて、冷たくされてる期間は、プチうつな私。でも3万円を持参する為に、一瞬でも会える日は、化粧しながら有頂天!

彼と付き合ってた期間は、まるでジェットコースターをアップ・ダウンしてるような気分でした。いつも満たされない思い。自分に自信がないから、「彼に気に入られる」ことばかり考えていて。全然、「自分の軸」がなかったあの頃。

普段の貢ぎ代は3万円だったけど、年末は大きな競馬レースがあり、彼のリクエストは「10万円持ってこい!」になりました。

まず最初は、上と同じように「お金出すのいやや」「じゃ、俺たちおしまいや」的ないつものやり取りがあり。

でも最終的には、彼に一瞬でも会いたいが為に、10万円を彼に渡してしまう私。(ううっ、私ってイタイ女!)(*_*)ゝイタタ

そんな彼との満たされない関係がズルズルと続き、暴力パン屋を辞める決心もつかぬまま、ダラダラと3年近く仕事を続けたけど・・・。

工場長の暴力はエスカレートするばかり。

「いつ、また仕事で失敗して、暴力を振るわれるか」と思うと、毎日ビクビク、ピリピリして、ストレスで一杯。

人生の大どん底3:ハゲ事件

ストレスまみれの大阪での生活。

久しぶりに、行きつけの美容院に行くと、いつもの担当の男性美容師が驚いて大声をあげました。

男性美容師:ようこさん、後頭部に五百円玉ぐらいの大きな円形ハゲが出来てるよ!なんか、ストレスあるんじゃないの?大丈夫?

心の中で感じていたストレスは、すでに体のあちこちにも出てきていました。

五百円玉サイズの円形ハゲ以外にも、左目の下に顔面チック症状。目の下の皮膚が、24時間いつも、ピクピクと痙攣してました。自分の意思では止められないのです。

それでも辞める決心がつかぬまま、仕事を続けていたら・・・

ある日、ぶっ倒れてしまいました。

病院に担ぎ込まれ、点滴を3日間。

もうダメだ。

仕事辞めよう!

実家に帰ろう!

・・・やっと決心出来ました。

大阪の荷物をパッキングして、実家に戻る時は本当に情けなかったです。

(;´д` ) トホホ

人生のミラクルターニングポイント1:それは、トリプル大どん底の後にやってきた!

大阪で、

「落ちこぼれパン職人で、上司に暴力も受けて」、

「彼氏に五つ股かけられ、貢ぎちゃんをさせられて」、

「ハゲとチックで健康を害し、ぶっ倒れ」

・・・と、ストレスまみれの生活を送り、20代前半で、人生の大どん底を3つも体験しちゃった私。トリプル大どん底な暗黒時代でした。

と・こ・ろ・が・・・

後から振り返ってみると、この「トリプル大どん底で、悲惨な負け犬的な体験」があったからこそ、その後の私の人生が大きく大きくシフトするターニングポイントに巡り会えることにもなりました。

(どん底の真っ最中には、とても、そんな風には思えなかったけど)

今思えば、あの時、超どん底な体験をしたからこそ、大阪から福井に引き返す一大決心がついたわけです。

逆に何もかもがうまくいっていたなら、今も大阪のパン屋で働いていたかもしれない。

じゃあ、「高校卒業してすぐに一人で親元を離れて、大阪に飛び出し、見知らぬ土地で暮らした経験が無駄だったか?」というと、それも違う。

この時の「親離れ体験」「見知らぬ土地で暮らしていく体験」があったからこそ、その後、もっと怖いカナダ留学にも挑戦できたのだから。

そして、その時に超怖い体験をすでにしてしまっていたので、オーストラリア人の旦那と結婚して、シドニーに移住することは「屁」でもないことでした。

人生に無駄な体験はないのです。全部、役立っている。

福井県に出戻り、アメリカ人のDan(ダン)に出会う

大阪から、地元の福井に出戻ると・・・

ちょうどの偶然のタイミングで、高校時代の同級生「まさよ」が、アメリカ留学から戻ってきました。

アメリカ人の旦那「Dan(ダン)」を連れて。

ダンは、福井でヘビメタバンドを結成。ヘビメタバンドでは、ボーカルとドラムを担当してました。英語でヘビメタのコピー曲(メタリカ、ニラヴァーナとか)を歌い、まるで、X-Japanのヨシキのように、首をブンブン振って激しくドラムを叩く人でした。

ダンは、福井県武生市の「CHOP」にある、「外人バー」と呼ばれるバーで、毎週末、演奏をすることに。

「CHOP」は、英語を話す外国人が、うじゃうじゃと集まるバーでした。60年代(?)のアメリカのようなネオンサインが素敵な、「ここ、日本?」と、びっくりするような、インテリアデザインの外人バーでした。

ところが、ダンも、まさよも、車がない。

私は、アッシー役(昭和の死語ですね)を頼まれました。

そして、ダンと、まさよを、毎週末、車で1時間かかる外人バーにお連れすることになりました。

外人バーで、ひとりぼっちの悲しい体験

外人バーに着くと、英語が母国語のダンと、英語が流暢なまさよは、人気者でね。

たくさんの外国人に囲まれて、楽しそうに話をしてる。

そんな中、私だけ取り残されて・・・

一人で、ポツーーーーン・・

( ̄□ ̄|||)がーーん!

だって英語が出来ないから、外国人は誰も相手にしてくれない。

やっと勇気を振り絞って、近くの外国人に話しかけても、

私:はろー!でぃすいず、よーこ。あいあむ、ふろむ、ふくいしてぃー。

外国人A:「あ、ごめんね。トイレに行きたいから。また後で話そうね。」

外国人B:「あ、友達が向こうで呼んでるから。また後で話そうね。」

・・・てな具合で、

また、一人でポツーーーーン

( ̄Д ̄;) ガーン

もうね、

「くそーっ!英語さえできりゃーいいんでしょ?」と、めっちゃくちゃ悔しくって。

(不思議と、「アッシー辞める」とは思わなかった)

悔しさをバネに、独学で英語の猛勉強!

外人バーで惨めな思いをした翌日、さっそく本屋に飛び込みました。

NHK英会話基礎から、NHKビジネス英語まで、6冊分のテキストブックを買い込んでね。そのラジオ番組を全番組、カセットテープに録音しました。

(当時は、カセットテープの時代!)

そして、朝から晩まで、毎日、毎週、いつでもどこでも、狂ったように、その英語の録音テープを聞いてました。家で聞く時は、テキスト見ながらラジオの声のリピートしたりね。

(でも、めちゃめちゃ楽しかったんだよね)

中学・高校時代、テストでいい点をとる為の英語の勉強は好きになれなかったけど、外人バーで友達作る為の英語の勉強は楽しくてね〜。時間を忘れて、毎日、夢中になってやってました。

その時、英語の文法や、構文は一切、暗記してないです。(だって興味なかったから)

そんなことを毎日やってたら英語が少しづつ話せるように。

私が英語を学んだ方法は、この記事にまとめました↓:

そうすると、外人バーでお友達がどんどん増えて!外国人と一緒に飲んで、喋って、叫んで、ヘビメタのライブ演奏に合わせて飛んだり跳ねたり踊ったり。

外国人の知り合いが増えるにつれ、手作りの食べ物を持ち寄る「ポットラックパーティー」というハウスパーティーにも頻繁に呼ばれたり。

かっこ良くて、優しいアメリカ人の彼氏も出来てね!本当に楽しかったなぁ、あの頃。

大阪で「落ちこぼれパン屋職人」や「ダメンズ彼氏に貢ぎ役」してた頃とは大違い。

私の場合、英語は文法や構文の暗記など、一切してません。ただ単に、その瞬間に、自分がワクワクすることを、素直に即行動していっただけ。

英語劇への挑戦も、そのワクワクの一つでした。

福井県の「Fukui Theatre Company」で英語劇に初挑戦!

英語劇「The Sound of Music」で「エルサ役」を怪演(左)

毎週のように「アッシー役」で、外人バー「CHOP」に通い、外国人の知り合いと飲んだりパーティーしたり、英語で外国人とコミュニケーションすることを楽しんでいた時、ある出会いがありました。

オーストラリアのシドニー大学に留学し、社会福祉学を学んだ「舟木伸介さん」という友人です。

彼は、社会福祉学が専門でしたが、留学中に演劇のクラスも一つ取ったという人でした。

その彼に、誘われました:

舟木ちゃん:「おい、ナンシー!(←当時外国人に憧れていた私が自分でつけたミドルネーム)英語劇グループ『Fukui Theatre Company』を発足するぞ。お前も一緒にやれ」

そして、演出家の舟木伸介さんが率いる、日本人約20人とアメリカ人男性1人による英語劇の練習がスタート。

そして、野外舞台で公演されました。

こうして、私は、1995年に初舞台「The Sound of Music」で、悪妻「Elsa」役を怪演しました。その時のことは、この記事にまとめています↓:

人生のミラクルターニングポイント2:英語劇グループ2年目の活動中に「それ」は突然やってきた!

初舞台は、まあまあ好評のうちに終わり・・・

私たちの英語劇グループは、2年目の公演「The Beauty and the Beast」に向けて、リハーサルをスタート。

カナダの大学で演劇を学んだカナダ人男性「Ron Dick(ロン・ディック)」さんも、新しい演出家として参加することになりました。

演出家役は、舟木さんからRonにバトンタッチされました。Ronの、ティーチングスタイルは、Improvisation(インプロ)と呼ばれる、西洋の演劇手法を用いたものでした。

Ronの演劇手法に触れ、「ビビビビビッ!!!💡 こ、これは何なんだ〜!もっと学びたい!!」と、震える私。雷に打たれたような電撃が走りました。

Ronに相談すると、「僕のやってる演劇手法は、アメリカやカナダの大学で演劇を専攻すれば、誰でも学べることだよ」と、あっさり言われ・・・。

「カナダの大学で演劇を学びたい!」という気持ちが抑えられなくなった私は、ついに飛んでいってしまいました。

カナダ留学をする前の不安

「カナダに飛んで行ってしまいました・・」と書くと、何の不安もなくカナダにすっ飛んで行ったように聞こえるかもしれないけど。

当然、不安もありました。

「カナダで演劇を学んで、将来、一体何の役に立つの?」と、常識的なことも一応考えました。

「働いて貯めた貯金を留学で全部使ってしまったら、老後の蓄えとかなくなっちゃうし」と、遠い未来のことも不安に思いました。

「今、20代後半だし、周りの友達は結婚して、子供を持ってる人もいる。私だけフラフラと海外に行って演劇勉強するなんて。もっと地に足をつけなきゃいけない年頃なんじゃない?」と、周りとの比較もし、自分がおかしいんじゃないかとも思いました。

でもね、当時のメンター「川瀬咲子さん」に相談したら、言われたんです。

もう歳だしって言うけど、あなたはまだまだ若いわよ。だって20代後半じゃない?

今は多少お金がなくても、自分の自由にできる時間はたっぷりある。

そのうちね、もっとお金に余裕がある年代になるでしょ?その頃には、親も歳とって面倒みなきゃ行けないし。旦那や子供もいると、自分が自由にやれる時間は減ってくる。

今、そうやって独身のうちに、思い切って自分がやりたいことをやってきなさい。好きなことをやっていれば、お金はついてくる!

咲子さんの愛ある言葉に、すごーく背中を押されました。

将来を思うと不安だらけだけど、それでも、カナダに行くことにしました。

記事が長くなってきたので、続きは別記事に書きますね:

つづく・・・